道徳と性産業・過去(自分メモ)

 マイケル・サンデルの本を再読したことに影響されて、思ったこと。風俗は道徳的に悪か、風俗(嬢or男娼/客)経験に基づいて生き方を制限すべきか。

 

性産業について

 いわゆる風俗を利用すること、或いは従事することは道徳的に問題のある事であるとされている。道徳というのは多くの人にとって大抵感覚的なもので、明確な理由や信念に基づくものではない。性道徳についても同じだろう。

 性産業の利潤が暴力団に流れているとか、セックスワーカーが搾取される構造の場合があるとか、児童買春その他犯罪の温床になっているとか、性病の蔓延や望まない妊娠を招くとかその他実際上の問題や、特定の宗教上の規範はおいて、純粋に道徳的な観点からはどういう問題があるだろうか。つまりセックスワーカーは暴力や貧困その他の生活の必要から他に選択肢が無いため止む無く従事しているわけではなく、完全に任意で従事しており、利用者側も同様(風俗が大好きな上司に連れ回されているとか)と仮定する。また、大多数のセックスワーカーは女性であるが、男性の場合でも以下の議論は同じである。反論については例である。

1.価値のない物を売っているから

 この論点では通常セックスはパートナー間の楽しみとして無償で相互に供与されるものである(生殖を目的とした売春は一般に存在しないので、生殖目的のセックスは取り扱わない)。そもそも金銭的な価値のないものを、その中毒性や依存性による需要に託けて売りつけるあるいは買ってしまうことを問題視する。煙草や麻薬、酒の販売のうちの一定割合などと同様である。正常な判断のできない消費者を対象に、利益をもたらさないものを売る行為は、消費者に対する搾取であると考える。また、そのような行為に手を染めること自体が、本人の尊厳を損なうとも考えられる。

 反論としては他者からの強要は存在しないので、問題ないという考え方があるだろう。

2.人間の品位を貶めるから

 愛のない性行為は、性行為の本来目的に反する、つまり性行為は本来何かの行為に対する報酬や単純に性欲を満たすためのものではないので、その目的外の利用が性行為者の品位を貶めるという考え。性行為は行為者と分離しえないので、性行為を取引の対象とすることで、相手を取引の目的物として利用している。

 反論としては、そもそも自分の性行為の本来目的は自分で決めることではないかという考え方、そして、他の労働(例えば単純労働ー労働者を生産装置としてみなしている)と違わないという考え方があるだろう。

 

過去の誤りについて

 例えば過去にセックスワーカーだった経歴があるから、教職を目指していたけれど、いまさら教職になるべきではないという考えは正しいか。別にセックスワーカーだろうが何だろうが構わないし、教職にも限らないのだが、要するに過去の道徳的過ち(誤りだったとして)に基づいて、自分の生き方を制限すべきか。

 やった行為自体の道徳性の省察と、過ちは清算されるかの二つがセットでないと、汚れ仕事の過去からは抜けられないのだろう。