自分の性に対して、強い誇りに似た拘りを持つ人たちがいて、結構幅を利かせている。

その人たちは自分が女性或いは男性であることが、まるで正義であるかの如く思っている。

男なら誰もが○○、女子はみんな△△

などと嘯くのだ。当然だがこの〇や△には必ず発言者の性質が入る。

男なら誰もが強さに憧れるとか、出世したいとか。この場合、発言者は強い男に憧れているし、それが正しいことだと信じている。付け加えて言えば、女性を守ることが務めで(何かからは分からないが)、その強さとは概して肉体的な強さである。あるいは泣かないことである。弁論の強さや、学科試験での強さなどでは絶対にない。

女子ならお洒落に憧れて、スイーツが好き、ウェディングドレスを着たい、女性らしくありたい(一方で男性らしくありたいは今日日はやらない。)。女性がおしゃれをするのは 正 し い ことであるということが含意されている。つまり、他人や社会はそれに配慮して亢進すべきだと。

もちろんこれらは完全なる虚偽である。強さに憧れない男性も、お洒落に興味のない女性もいくらでもいる。これらの道徳的な正しさが現代社会全体で共有されているわけではない。つまり法はそのような権利を保障していないし、自分の理想は自分で決めて良いということになっている。

なぜ 自 分 は○○だとか△△だと言わないのか。それは勿論自信がないからである。暗に論拠がないことを示しているのだ。社会正義の実行という建前が欲しい、ただの言い訳なのである。暴力的な振舞や、浪費、怠惰への免罪符なのだ。

 

日本人(あるいは何人でもいいし何とか民族でもいい)であることに誇りを表明する人々も、同じである。能力不足や努力不足による外国文化への理解の放棄、外国人への攻撃への免罪符が欲しいのである。

 

でなければ一々表明する必要などない。本当に正しいのなら、黙って実行すればよい。何も言わずに実行すれば非難されると分かっているから、表明するのだ。

ケーキを食べ過ぎれば、君は糖尿病になりたいのかと、健康に悪いぞと諭されるのである。

だからこう言うのだ

「女子はやっぱりスイーツが好きだから」

 

 

馬鹿だと思われるから、あまり言わないほうが良いと思う。