掌編小説

 東京の丸の内で八時を回った頃、ある男が、勤務先の入るオフィスビルの一回にあるカフェへ、とぼとぼと入っていった。冷蔵ケースを一瞥して唯一売れ残っていた女性に人気だという野菜サンドー正確にはVegitable sandwichと書かれていたーを30%引きで買い、妙に豪奢なソファに座ってモソモソと食べ始めた。

 「女性は今日は食べ残したんだなあ。」

とつぶやいて、男は地球温暖化と食品ロスに思いを馳せた。男がサンドウィッチのレタスをシャクシャクと咀嚼しながら、包装に張られたシールを見ると、パン、マヨネーズ、蛋白加水分解物、粒マスタード、レタス、トマトなどと共に製造者としてビル管理会社の関連企業の名が記されていた。男が暮らす社会は資本主義社会だったのだ。

 男は小さく頭を横に振ってから、サンドウィッチの残り半分をテーブルに置いて、徐にサキの短編集を読み始めた。いけ好かない善良な人々は罰せられ、虐げられた淡白でまともな人々は報われた。男は英文学を好んで読む厭味ったらしい人物だったのだ。男はどこまでも厭味なやつで、今も男の癖にオリエンタルウーロン等という名前の付けられたフレーバーティーを飲んでいるし、普段から東京出身だという雰囲気漂わせ隠そうともせず、都会でしか手に入らないような輸入食材を買い、牛丼やラーメンよりも聞いたこともないような外国の料理を好んだ。後に同僚が聞いたこのオリエンタルウーロンなる飲み物について男が述べた感想は、「オリエンタルでない烏龍茶があったら飲んでみたい」だった。

 

平和の玩具 (白水Uブックス)

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 サキの短編を二つほど読み終え、腑抜けが湖の氷が割れて冷たい水底に沈んだところで、男はよろよろと立ち上がり、仕事に戻っていった。この男は仕事が終わるのを待っていた。男の今夜の仕事は"待機"だった。何を待っているのかは男自身にも良く分からなかった。決算でシステムで突合だとは聞いていたが、具体的に何をしているのかは分からなかったし、もはや訊く気にもならなかった。謎のシステム処理が一体今どれほどの進捗なのかも、自分が待機することが何の役に立つのかもわからなかったし、それは男が唯一質問できる相手-待機を指示した女-にしても同じだった。男の暮らす社会は分業制の資本主義社会だった。

 男は何も知らなかった。いつ日が沈んだのか、あるいは日中の外気温さえも。もちろん、休日になれば知っていることも幾ばくかはあったが、誰もそれに興味はなかった。